インド人体験記

横浜

プロローグ

この話は中年ITエンジニアが再就職した時の実話に基づいています。トレーダとして5年間もフリーな生活をしていた僕は、子供の進学問題もあり、このままでは生活できない状況に陥っていました。同じように会社を辞めた旧友がインドの会社に再就職していたのを思い出し、メールをしたのがきっかけで、再就職できたのです。インドの会社になんて変ですか?皆同じ人間ですよ。

53歳の再就職

退職してから5年以上過ぎていた。こんな歳で5年間もブランクがあればまず雇うところはないだろう。半ば、そう思っていた。

2011年3月9日、旧友である宮本と顧客との面接に向かっていた。宮本はF通を辞めてインドの会社(以下ISM)の営業担当部長になっていたのである。

「スーツ着るのも久しぶりだし、緊張するな~」

5年以上も社会とは無縁の生活だった。株のデイトレード生活を送っていたからだ。8時半に起きて9時前にはPCに向かい、トレードをやって午後3時で終わり。後はテレビでも見ながらチョビチョビ飲んでいるのだから、普通の社会人ではない。しかし、こんな生活は永くは続かなかった。リーマンショックもあり、市場はパニックになったし、元々、才能がなかったのかも知れない。損してばかりだったのだ。

だから、安定して稼ぐ必要があった。妻と2人の子供の生活もかかっていた。

「緊張するったって、話すのが苦手だと困るんだけど、、ちょっと鼻に汗かいてるんじゃない?」

宮本からは、昔ながらの軽い返答が返ってくる。

「今日はちょっと暑くない?」

3月だから、そう暑いハズもない。久しぶりに社会人(会社人)と話をすることに明らかに緊張していたのである。

大学時代から30年くらいの時を経て、一緒に客先へ向かうなんて不思議な縁である。

その昔、木場でばったり会ったことはあるが、そう親密だった訳でもない。去年の夏に、インドの会社に再就職したというメールが来ていたのを覚えていて、こちらから手ごろな仕事はないかとメールしたのだ。

御免で済ますこともできただろうが、まじめに考えてくれて、結構、面倒見の良い奴なんだなと思った。

ただ、この時、僕ははまだISMの社員ではなかった。稼ぎ先が決まらないと雇ってはくれないのだ。

今日の面接は2件。1件目はほとんど駄目だった。仕事の内容も今一つだし、やはり緊張がとれていなかったのかも知れない。

2件目はお台場である。インド人がオンサイトで働いているらしいが、内容的には自分にマッチしているように思っていた。

一階にあるTullysでコーヒーを飲んで待っていると、2人がやって来た。FSCの長野課長とISMの原さんである。原さんは女性だが、英語が堪能でインド人やアメリカ人をまとめるリーダであった。原さんはなかなかの美人だし、長野さんも話しやすそうな人で、最初の印象は悪くない。

プロジェクトの概要を聞いたり、問題点を聞いたりしたのだが、特別、問題なさそうに思えた。僕には英語能力よりもオープンソースでのシステム開発能力に期待しているようだった。この分野は元々、僕の得意分野である。5年前の話だけど、、、

「できると思います。ただ、あまり身体的に無理をすることは止めたいですが、、」

「それは、基本的に請け負い契約だから、時間を拘束する訳ではないです」

「インド人って、日本人からすると変に思えるんですが、大丈夫ですか?」

「5年もブランクがあって、大丈夫でしょうかね?」

「まあ、勘もすぐ戻るんじゃないの」

ということで、採用してくれることになったのだった。

「じゃ、宮本さん、契約の手続きを進めましょう」

宮本は、ホント?こんなんで良いのかよ?という感じだった。

もちろん、僕にではなく、顧客に対してだ。

大震災 3.11

面接を終えて、ゆったりしていた2011年3月11日午後2時46分にそれはやって来た。まだ、株式市場が開いていた時間に、突然、ドーン、グラグラときたのである。もともと関東は地震が多いので、いつものことかと思ったが今回は違っていた。立っているのも危なくなってきたのである。

「あっこべー大丈夫か?」

PCのある2階から妻を叫んでみたが、返事はない。子供の机の下に隠れていたらしい。

僕は結婚後、1ケ月くらいから妻をあっこべーと呼んでいた。当時は向こうもクロベーと返していたのだが、今はオヤジである。

「今のは大きかったな~」

家の中は小物が落ちてきたぐらいで大したことはなかった。

TVをつけると、津波警報が出ていたが、まだそんな危機感はなかった。千葉でも山奥の方なのだ、ここまで津波が来る訳がない。

それから、普段通りに近くのスーパまで買い物にでかけたくらいである。

スーパーは普通に開店していたが、ちょっと様子が違っていた。珍しくコメを買っている人がいる。トイレットペーパやインスタント食品なども売れているじゃないか?それが、普通の庶民の反応だったのだ。大したことはないのになんで?、っと思っていた僕は相当な楽天家なのだろう。

しばらくすると、スーパから物は消え去るのであった。

阪神大震災の時も、スーパーから物が消えて、おでんくらいしか作れなかったが、その経験が全く生かされていない。阿呆だね。

家に戻ってからも、たびたび余震は続いていた。津波警報からどうなったのか、現地の情報はない。

そして、首都圏で交通機関が完全にストップしていることが分かったのである。今日は、好(このみ 長女:18歳)は渋谷に行っている。大丈夫か、、、

「ひゃー、すごい地震だった」とひかり(次女)は中学校から帰ってきた。

好と連絡がついたのは深夜である。運よくマンガ喫茶で席を確保できたらしい。友達のお父さんが出勤先から歩いて向かってるとのこと。

「帰ってくるのは明日でいいから、何かあったら連絡しろよ」まずは一安心だ。

翌日、好は動き出した電車を乗り継いで帰ってきた。なにはともあれ、無事で良かった。

それからは、福島原発事故やらで、計画停電にも見舞われて、状況は悪化するばかりだ。

ガソリンも少なくて、給油できるかガス欠かの瀬戸際だったし、コメは田舎から送ってもらっているから良いものの、トイレットペーパはかなりピンチだった。昔のケーキの残りロウソクをつけて過ごした夜はなんなんだったのかと今は思うが、その時は計画停電のスケジュールをチェックしながら生活していたのである。

地震当日に、買いだめをした人達は、賢いんだろうな。僕は能天気な性格なんだろうか。

初出勤

3月29日に宮本から電話が掛かってきた。

「明日、支社長との面接だけど来れる?」

もちろん、答えはYesである。震災で止まっていた話が進み始めたのだ。

この間、放射線の不安で、インド人が帰国したりして会社は混乱していたらしい。

この5年間、トレードばかりやっていたのだ。まともに仕事が出来るのか自分でも不安はあるが、前に進むしかない。

支社長との面談後、「明日から行けるか?」と聞かれて、昨日までのフリーな生活とおさらばという戸惑いを覚えながらも、「Yes」しかない。

翌日、約束通りにお台場のFCSのオフィスに行けた。まだゆっくりの時間とは言え、スーツ着て出社なんて5年半振りである。

「こちらに決まって良かったですね」と原さんが言う。そうだね、、一緒に働けるようになって僕も嬉しいです。

その後、プロジェクトの概要の説明を受けて、メンバーと挨拶だ。僕は和三盆(徳島の砂糖菓子)を用意していた。

皆、笑顔で僕を迎えてくれる。「Where is TOKUSHIMA?」とWebで地図を見たりしてる。何の心配もなさそうに思えた。

プロジェクトの資料を読みながら過ごしていたが、なんだか周りがのんびりし過ぎているような気がしてきた。

今思えば、3月末にバタバタすることはないのだろうが、誰もプログラミングをしていない。

「開発チームだろ?大丈夫かよ」と内心思った。原さんもペチャクチャお喋りしているし、、、汗がでてくる。時間がもたない、、、

「パソコン買ったけど、今日、取りに来る?」と宮本からの電話、、OK!、とりあえず今日は早めにオサラバだ。

リラックスしているメンバーを尻目にそそくさと退社したのだった。金曜日だったから良かったな~。

でもこのメンバーは大丈夫なのか?、、、不安、不安、不安。

会社生活再開

5年以上フータローやってた身には無事?通勤できるかがまず問題である。

土日を休んで月曜日。出勤日である。大丈夫か?

Yahooの路線で時間は調べてある。勤務先のお台場までは約1時間半。7時に起きれば間に合う。

大丈夫、起きれた。7時25分に家を出て7時43分の電車に乗る予定だ。

その前に駅前のローソンで昼ご飯を買わなくっちゃ。サンドイッチと牛乳でいいや。

意外と電車は混んでいなかった。この電車は快速じゃないから利用する人が少ないんだろう。

でも、さすがに西船橋駅と乗り換えたJR武蔵野線は混雑していた。

武蔵野線はディズニーリゾートのある舞浜も通る路線である。

ディズニーリゾートは朝早くから人が押し寄せるので、通勤と重なると混雑も並ではない。

ギュウギュウ状態を覚悟しなければならないのだが、なんとなく通勤ラッシュが懐かしく思えるのだった。

新木場から、りんかい線に乗り換えて東京テレポートまで行く。新木場は始発なので一つ電車を見送れば座れる。

なんとか9時前に出社できた。エレベータも混んでるけどね、、このくらい給料もらうには当たり前でしょう。

それ以降、電車の遅延以外では遅れることはなかったのだ。結構、社会人に復帰できるんやと思った。

9時を過ぎる頃、ぞろぞろと皆が出社してきた。

このチームは日本、インド、アメリカの混成チームである。

このチームがこのプロジェクトで最も重要な部分を担っているのだから可笑しい。

4社ほどの顧客が作る業務アプリケーション向けの共通API(アプリケーション・インタフェース)チームである。

周りが日本人だけだった(中国人もいたが)昔の会社勤めとは大分違いそうな気がした。それは悪い意味ではなく、、、

新鮮な経験が待っているような気がしていた。最初の不安は、アレルギーみたいなものなんだろう。

今日は持参したPCの設定作業がメインだ。FCSはセキュリティが厳しいので(ある程度の規模の企業では当たり前だろうが)、

色々と手続きが難しい。ようやくPCをセットアップして、幾つかの開発用ソフトをインストールできた。

とりあえず、まずまずのスタートだったように思う。

始動

ファイルサーバ、メールやプロジェクトWebにも接続できるようになり仕事が本格的に始まった。

プロジェクトのドキュメントを読んで理解する。

クラウド環境の汎用検索エンジンみたいなものなのだが、Javaは5年くらいの経験はあるし、なんとかついていけそうだ。

このプロジェクトはすでに半年がすぎていて、今年度は実装フェーズに入っていた。

隣でニヤニヤこちらを見ている人がいる。

ニタイさんである。ニタイさんは一番最初に話しかけてきたインド人で、インド人のなかでも日本語がうまい。

他の日本人と一緒に、開発標準を作っているらしい。他のインド人が何をしているのかはまだ知らない。

昼休みだ。インド人は皆、自炊で弁当を持参している。ライスとカリーか何らかの混ぜご飯だ。時々、カリーの匂いがする。

彼らは宗教的に食文化が違うので、うっかり日本の物は食べられないのである。

ゼラチンが入っているお菓子も食べない。

僕は1階のファミマで買うサンドと牛乳が定番になっていた。これはこれで笑い種になるのだけれど、、、

仕事はと言うと、ミーティングに出席する機会も増えてゆき、長野さんからはテスト計画についてのドキュメントを依頼されていた。

テストは好きじゃないが、まあJavaのテストなら充分経験はある。JUnit,Jcoverage,CheckStyleがすぐ頭に浮かぶ。

今回のプロジェクトはオープンソースが前提で、FCSにほとんど経験がないのだ。それで僕が採用されたのだけども、、

テストを中心に仕事を進めてゆく。

それから、Javaクラス構造の設計検討会議や構成管理などのミーティングに出席しながら、プロジェクトに溶け込んでいった。

まあ、まだゆったりした時期だった。ほとんど定時で帰れたのだから。

US vs. India

GW明けから8月末のR1.0にむけて、本格実装・テストの予定だった。

クラス階層の概要設計を終えて実装やテストのスケジュールを決めているところだった。

設計の主体はエリックである。若いが才能があり、原さんのお気に入りだったのだ。

エリックは白人だが、金髪でなく坊主頭みたいなものである。

理由は聞いていないが、よく帽子をかぶっていることからすると、彼にとってはハンディなのだろう。

しかし、明るいのはアメリカ人の特徴だろうか?いつも原さんとジョークを飛ばしている。

原さんはインド人は苦手らしい。アメリカ人は陽気で分かりやすいからね。

ゴールデン・ウィークの期間中、タンガさんは帰国していた。単身赴任なので家が恋しいのである。

エリックと決めたプランを説明するとインド人からはあまり良い返事はなかった。

「タンガさんが戻ってきてから決めましょう」

僕は分からなくて「彼のプライドが問題なのか?」と聞いたのだけど、にやにやで決まらなかった。

タンガさんが帰ってきて、彼がインド人のリーダであることが分かった。

「このクラス図は誰が書いたんだ?」

ツールで自動作図したのは僕だけれども、元はエリックだというと、彼の元へいって議論を始めたのだった。

結局、チーム全員参加の設計検討会議になったのだが、これまで話す機会の少なかったタンガさんが分かってきた。

いままで、発言してこなかった他のインド人のメンバーも討論に加わってきた。こんなに話せるんだと驚いたくらいだ。

インド人のプライドもあるのだろうが、彼の言うことは正しいと思ってきた。

僕自身もエリックの設計の不自然さを追求するようになり、ホワイトボードでWhy?と指差しているぐらいだった。

結局、この後、開発リーダはタンガさんで安定することになるのだが、雨降って地固まるか。

感謝

5月にサラリーが振り込まれた。インドからの海外送金である。

5年半振りの給料だ。なんて素晴らしい。

旧友の宮本に、長野さんに、ISMに感謝である。これで当分暮らしていける。

そんな時、ISMでパーティを行うことになった。パーティといってもただの食事会である。

スパイシーが苦手な(汗が出る)僕はインド料理は避けたかったのだが、ラージマハールのインド料理に決まった。

「大丈夫。そんなにスパイシーじゃないのもあるし、、」

既に仲良くなっていたタンガさんが気遣ってくれるのは嬉しかった。

肉はチキンしかないが、インド料理は意外と美味しかった。念のために用意したタオルハンカチは無用だったか、、、

手で食べても、ナイフ・フォークを使っても良いらしい。飲める人はアルコールもOKで、僕はしこたま飲んだ。

インド人のなかでもゴピさんだけは飲むので、一緒にウィスキーを頼めるのだ。

英語は得意じゃないけれど、それなりに盛り上がって、なんて良いチームなんだと思えた。

安定した給料に良い仲間に感謝である。なにかプレゼントをしたい、、、

そう思った僕は実家に藍染の扇子を12本ほど送ってくれるよう頼んだのである。

「This is a present for you!」

翌週に、一人ずつ扇子を手渡した。長野さん、宮本さん、アルさんの分も用意してある。

使うかどうかは別にして、感謝したかったし、チームのシンボルにしたかった。

タンガさんとカリアンさんは持ち帰ったようだ。多分、奥さんへのプレゼントにするのだろう。それはそれで良い。

実は、藍染の扇子は高価で、親には5万円も使わせてしまったのである。

少し、後悔もしたが、送ってもらったものはしょうがない。気前良くプレゼントしよう。

テスト、テスト、テスト

共通APIは短期間での繰り返しリリースが予定されていた。

ソフトウェア開発には幾つかのプロセスモデルがあるが、代表的なのはウォータフォールモデルであろう。「V字型モデル」ともいわれているが、「要件定義」フェーズで始まり,「開発」フェーズで折り返して「システムテスト」へと進むことで“V字型”を形成する。V字型の前半部分は「品質を埋め込む段階」、後半は「品質を検証する段階」と位置付けられている。

ウォータフォールの意味は、後戻りを基本的に許さないことであるが、今回は時間がない。開発とテストはほぼ平行で進めなければならない。

機能単位でリリースの予定は立てられており、開発も驚異的なペースで行われているのだが、テストが通らないとリリースはできない。

テスト環境は整えていたし、データベースも準備していた。そこいらは昔取った杵柄である。

テストプログラムもインド人に交じって書くことになってしまった。本体でない分、気は楽なのだが、プログラミングは相当久し振りだ。

でも、なんとかなるものである。

「バリバリ現役じゃないですか」

長野さんに、そう言われるのは悪い気はしない。

この頃はにテストチームもまとまりが出てきていた。テストはちゃんと動いてほしい。

テストプログラムの実行画面に手を合わせると、インド人は大爆笑。動かないと「Why?」、「Only God knows」、「Amen!」、「No! not Amen!」。

インド人の祈りはアーメンじゃないわな。ラーメンと言っても笑ってくれないかな?だろうな。

タンガさんとはベストパートナーの関係だ。僕が問題を見つけると、テストデータ付でタンガさんにメールすれば良い。

タンガさんは、エリックやジョーに振ったり、自分で解決してくれる。再テストでOKならば問題は片付いたということだ。

大石さんには結合テストを担当してもらっていたが、ソフトウェア開発は経験の少なさから辛かったかも知れない。

それでも、テストケースのマトリックスを作ったり、自分の仕事はこなしていた。

それなりのチームワークが出来てきたんじゃない?って思った。

ただ、だんだんとスケジュールは厳しくなってゆくのだった。

デスマーチ?

リリースを開始してから、問題は発覚する。ユーザは自分の手に取るまでは文句を言わないものだ。

大規模な改修が行われることになった。通常の機能追加に加えてである。

デスマーチ(死の行進)になるのか?

日本人の技術者は僕しか居ないため、いつの間にやらプロダクトの責任者みたいになってしまった。

リーダーは別に居るだろう、と内心思っても、彼女は開発フェーズでは役に立たないのである。

大改修後のリリースは大変だった。テストがほとんど動かない。その時、僕は問題の原因がプログラムかデータか人為ミスかの切り分けをやっていたのだが、あまりの問題の多さに切り分けが追いつけなかったのだ。大石さんはやたらと不具合票を作って、仕事を増やしてくれる始末だ。

リリース予定は今日である。夜の11時を過ぎたころ、残障害と見通しの打ち合わせを、長野さん、原さん、僕で行っていた。

もう今日のリリースはあきらめよう。僕がリーダならそう判断したかも知れない。

これまでの会社生活で徹夜は一度しかしていない。しかも新人の頃だ。出張先で夕食もとらずにホテルで缶ビール一本で寝た時も徹夜はしていない。そんな働き方は嫌だ。これは他人が作った不具合のため海水浴がキャンセルになった時のトラウマかも知れないが、自分を犠牲にするような働き方はしたくない。

リーダの綺麗ごとを聞いているうちに、最終電車の時間が近づいてきている。

「それじゃ、原さん、後はよろしく」

と帰ろうとしたのだが、そういう訳にはいかなかった。

長野さんはゴールデンウィークも休みを取らないような、ワーカホリックである。独身だから問題もないが、とにかく今日のゴール(完了条件)を満たさないと許せない性格らしい。結局、引き留められた。

徹夜である。

深夜、2時くらいに不具合をfixさせて、5時くらいにリリースした。本来、日本の労働基準法に従えば、深夜勤務の翌日は休みである。しかし、そんな建前は通用しない。リリース後のトラブル対応に備える人員も必要だし、ISMはインドの会社なのでそもそも労基法は適用されない。

こんなリリースは2回くらいなので、デスマーチとは言えないだろう。デスマーチはもっと出口なしの状態だからだ。

信頼と絆

結合テストと毎週のリリースに追われてチームは疲労していたが、ゴールに向けたお互いの信頼により目標はクリアされていった。

タンガさんを中心とする開発チームは相変わらず、驚異的なスピードで開発していたので、単体テストチームは変化するターゲットに追いつけないでいた。本来、これはV字モデルでは許されるものではないが、そんな事を言っている場合でも無かったのである。

リリース判定は結合テストを中心に行われていたが、インド人の驚くような才能をしばしば見た。

ニタイさんはソフトウェアエンジニアとしては優秀とは言えないが、テスト結果の検証では暗算能力を発揮していた。インド人は2桁の掛け算ができるとは聞いていたが、本当に暗算能力は高いようだ。

ヴィカスさんはテスト要員として7月から参加していたのだが、テストに賭ける執念は凄まじいものがあった。タバコもお酒もたしなむのだが、仕事に対する姿勢は感心したものである。「インド人は結婚式でもお酒を飲まないの?」と聞いたら、「隠れてね。酒飲みは社会的に排除される」とのことだ。

開発者とバグだ!X?。○!Xと議論しているのが思い出される。残念ながら、、9月末でインドに帰国したらしい。元々ソフトウェアエンジニアではないからなぁ、、、、、

カリアンさんは日本人にも好まれそうなハンサムである。夫婦で来日しているのでハッピーだろう。

ある日、タンガさんとタクシーで相乗りして帰った時、「カリアンの嫁さんは妊娠している」と教えてくれた。

「it’s a good news!」

カリアンさんはテストチーム内の作業分担を決めるなど、インド人のサブリーダとして動いてくれた。

時々、「How is your wife?」と聞くと、「Good!」と笑顔で答えてくれた。チームはカリアンさんに無理しないよう気遣った。

今や、チームは堅い絆で結ばれた、運命共同体のようなものになっていた。僕は周りの日本人とインド人・米人との橋渡しもしていたし、

自分自身の仕事も持っていたが、皆がお互いにサポートしている感じがした。

Good Team! Pirates of India.

僕がWebにあげるテストレポートのトップページに書くと、皆、可笑しがったものだ。笑いがないとね、やってられないよ。

嫌な予感

プロジェクトも終盤にかかっていた頃、出社するとタンガさんがちらちら僕の方を見る。

なんか変だと思っていたら、「Do you drink tea?」と聞いてくる。まあ、飲むから「Yes」と言うと、何やら差し出してくる。

「Present for me?」と聞くとコックリ頷いて、3Rosesという紅茶を手渡してくれた。多分、僕のためにインドから取り寄せたのか、インド食品店で買ってきたのだろう。本当にあなたと一緒に仕事ができて幸せだよ。Thank you!、Thank you!、Thank you! 何度でも言いたいよ。

プロジェクトでの怪しい変化と言えば原さんが休みがちになったことだ。

テストとリリースで忙しい時期に大石さんや僕が「皆忙しいのに、テストでも手伝ったらどうや」と反発したためだろうか?

チームで統合開発環境をインストールしていないのは彼女だけである。

「少しでもチームに貢献したらどうか」と僕は言ったのだが、「別の仕事があるから、その話はまた別の機会に、、」と逃げられた。

大石さんによると、以前から、原さんは月曜日にはISMに居ることになっていたが、全然、連絡が取れなかったらしい。

原さんはだんだん休みが増えていって、早めの夏休みを取って以来、殆ど出社しなくなったのである。

驚いたことが起こった。

8月のサラリーがカットされていたのだ。

「何故?サラリーは同意した上でサインしているのに、この前、逃げようとしたペナルティ?」

この頃から、宮本さんが原さんの代わりにFCSにあらわれては、進捗ミーティングをやるようになっていた。

喫煙室で2人になったので「サラリーがカットされてたんだけど?何故か分かる?」と聞いてみた。

サラリーカット自体は知らなかったようだが、予算が減らされる状況は知っていたようだ。

数日後、大石さんと僕宛に最新の業務経歴書を作成するようメールがあった。

「なにか怪しいですね?」と大石さんにメールを送って、喫煙室で話をした。大石さんは普段タバコは吸わないが付き合いで吸うこともある。

「この前の体制表でも名前があったから大丈夫じゃないですか?」と大石さんは言うのだが、、、

僕は嫌な予感がしていたのである。

別れ

お別れは突然やってきた。

R1.0機能のリリースを一段落して、後は不具合対応と納品向けのドキュメント作成などである。

僕は8月12日から夏季休暇を予定していた。それまでに自分が必要となる仕事は終わらせる予定である。

「僕の休暇の間に、テストレポートが必要な場合はヴィカスさんに頼んでください」と皆にメールした。

皆、ヴィカスさんが僕の弟子になったと笑っていた。

そして8月11日の午後のミーティングで進捗・見通しを確認した後、宮本さんは言ったのだった。

「石川さんは今日で、大石さんは明日で、このプロジェクトを離れます」

皆は寝耳に水だろうが、僕と大石さんは例のメールでうすうす予感していたので驚きはしなかった。

このプロジェクトでの仕事は4か月半で終わってしまった。

所詮、協力会社である。長野さんは部長に昇進していたし、社内の人間をまず食わせなければならない。

一段落して、インド会社の日本人は金額に見合わないと判断したのだろう。

1週間後、僕はPCを引き取りにお台場に行った。これで本当にこのメンバーとお別れである。

荷物を片付けて、皆に挨拶しなくっちゃ。

長野さんに「お世話になりました」と挨拶すると、長野さんはただ頭を下げているばかりだった。

一通り、インフラやマスター管理、プロジェクト管理など他チームなどに挨拶して、共通APIチームとのお別れである。

一人ひとり、握手しながら感謝した。自分の英語がうまくないのがもどかしい。

タンガさんはすぐに腰を上げて近寄って握手してくれた。

「You are an amazing engineer」と言うと、首を横に振って、困った顔をした。寂しい別れである。

原さんはいない。ずっと休みの状態である。特別、お礼を言う気もないが、、、

久々に充実したプロジェクトも終わりである。

Good luck! and Good bye!だ。

エピローグ

次のプロジェクトの概要を宮本さんから聞くため、ISMの木場オフィスで僕は大石さんと久々に会った。

大石さんはアルさんと話して、長野さんによる個人評価も見せてもらったとのことだった。

「あいつ性悪女ですよ。原さんの評価がずば抜けて高くて、他はBやCですよ」

「原さんと長野さんに逆らったら、ダメでしたね」

そうゆう関係だったのか?長野さんの僕に対する態度もだんだん厳しくなってる、とは感じていたが、、、

下衆の勘繰りは外れてはいないだろうが、もう終わったことだ。

一時期でも楽しく仕事をさせてもらったのだ、恨むつもりはない。

僕が外れることが分かって、真っ先に席に来てずっと横に座ってくれていたゴピさん。

一度でいいから一緒に飲みに行きたいと言ってくれたのに、行けなかったね。

「インドには行ったことないんだよね」と言うと、

「僕が連れて行ってあげます。僕が付いているから大丈夫です」と言ってくれたニタイさん。

カリアン。良いダディになってくれ。

あなたの言ってくれた「We miss you」で、僕は十分満足です。

素晴らしいインド人達よ、ありがとう。

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